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コラム@NCU 第3回 文章を書くということ(石川貴彦)を掲載しました。

 みなさん、こんにちは。名寄市立大学の石川貴彦です。大学では、情報処理や教育実習など様々な分野を担当しています。そして、基礎演習という文章の書き方に関する授業も担当しています。これは、課題文を読んで600~800字程度の文章を書く、つまり大学入試で出題される小論文試験を、大学入学後でも学び直すといった趣旨のものです。
 ここからが本題。私が上手い文章を書けたかというと、決してそうではなかった。小学校のときの読書感想文では「あしながおじさん」を読んだが、感動を全く表現できず、ただ「おもしろかった」と一言述べることしかできなかった。それは何十年か経った今でも、事あるごとに親から揶揄される。
 こんな私が、しっかりした文章を書かなければいけないと危機意識を持ったのが、大学に入ってからだった。高校までは知識の量で成績をなんとか保っていたのだが、大学ではそれが通用しない。大学での成績評価は、文章で自分の考えや意見を述べる「レポート」といった形式で、その授業の成績を決めることが多い。大げさに言うと、大事な所で文章が良く書けていないと留年になってしまうのだ。
 では、「文章が良く書ける」とはどういうことか? それは、小説家や作詞家のように絶妙な言い回しを要所要所でビシッと決めることなのだろうか? 秋元康氏は言い回しが上手いから売れているんじゃないか? 彼のある曲の歌詞には、思い出、明日、出口、入口、サヨナラ、ハイタッチといった言葉が並べられている。私なりに解釈するならば、思い出は過去を表すが、明日は未来を表す。出口は終わりを表すが、入口は始まりを表す。そして、サヨナラは悲しいものだが、ハイタッチは嬉しいものを表していると比較できよう。つまり、ネガティブとポジティブの対比を端的なフレーズで表現しながらも、全体的にポジティブの方向へと導いて、人々の共感を得る歌詞のように思える。ある種の戦略を感じさせられ、疎ましさもあるのだが、一般人の私にはこんな表現は考えもつかない。
 一般人が持つべき文章力とは何か。その答えはただ一つ、読む相手が理解できる文章を書く。それだけのことである。それは、文章の表現力や意味の深さとは別次元の話である。私たちは専門分野に関する研究を行い、その成果を論文にまとめて学会の審査を受けるのだが、その審査に落ちることがある。それは研究内容がくだらないということよりも、論文の書き方が不十分で審査員に理解してもらえなかったことが原因であるケースが多い。「了解性が不十分である」と一言で片づけられる。
 こんな私が言うのもあれだが、皆さんには了解性を日頃から意識して文章を書いてほしい。それは単純で、句読点の位置、段落、主語と述語の関係などといった、ちょっとした文法を自分なりに意識するだけでよい。この書き方だと相手にわかってもらえるだろうかと自問自答することである。文章を書くことは、大学入試でも、大学の授業でも、就職しても、とにかく一生つきまとう。私がここで述べたことが、皆さんの記憶のどこかに残ってくれるとありがたい。

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